Friday, 16 March 2018

出家

17才の時、「欲」に満ち溢れた、腐敗しきった世界に絶望し、出家を決めかけていた僕へ、亡き父が贈った言葉:

「悟り」には袈裟が不要。
「悟り」にはお寺が不要。
「悟り」には出家が不要。

充分かもしれないが、必須では無い。

44才の今、僕がやっとたどり着いたところ:

「修行」の目的は「自分」を知り、「自分」を認め、「自分」を極めることで「悟り」を目指すことである。

「悟り」には「形」が無い。
「悟り」とは「形」の超越である。
「形」が無いから、「形」にこだわる以上、「悟り」に至らない、辿れない。

そして「悟り」は「場所」では無い。

「悟り」は「道」である。
「悟り」は「未知」である。
「悟り」は「無知」の「道」である。

「道」には袈裟が無用。
「道」にはお寺が無用。
「道」には出家が無用。

「道」とは真の「家」(うち)を知る、「真」の「家」に帰る、「心」の「家」に生きることである。
常に「心」の「家」に生きることで初めて「家」を超越する可能性が生まれる。

「家」を知るには、外から見つめる方法もある。でも、必須では無い。充分かもしれないが、必須では無い。

「道」には「無用」
「道」には「無要」

「道」は無形である。
「道」は「無形」である。
「道」は「無家」である。

お父さん、ただいま。

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